翌日、海は少し時化ていた。

「潜れますか」
「こんくらいやったら大丈夫やしょ」
 勇一は、肩に掛けていたタオルの両端を持ってねじると頭に巻き付けた。

 三人を乗せた隆栄丸は西脇漁港を出航した。
 ポイントはGPSが覚えている。淡路島の方にまとまった漁船群があり、近くには釣り遊びのプレジャーボートが点々と浮いていた。
 がそれも、ポイントに近づくにつれ殆どいなくなった。

 目の前を南海フェリーが通り過ぎていく。その航跡波を、隆栄丸は大きく上下しながら乗り切った。 隆栄丸の速度が落ちる。ポイント付近に到着したのだ。

 ポイントは昼間見ると思っている以上に陸寄りだった。この時期の透明度は高い。だが、目を凝らしてみても海中で笹竹は確認できない。意外に深いようだ。

「こんなとこやったっけなー」
 勇一がまぶたの絆創膏をさすりながら独り言のように言う。

 隆栄丸は、船を固定するために前後にアンカーを張る作業にはいった。隆栄丸はポイントから一端南に五十メートルほど離れた。

「アンカーデッコウ」
 勇一の声が飛ぶとリエが重たいアンカーに手をかけた。

 要領を得ずに所在なく見ていた浩也が慌ててリエに駆けつける。が、リエは細い腕で大きなアンカーを引きずるように持ち上げると、船縁を擦りながら海上に押し投げた。

 アンカーは繋がれたロープを強引に引き込みながら一挙に海中に消えた。アンカーが固定されたのを確認すると、隆栄丸は今度は北に進み、ポイントを五十メートルほど過ぎた辺りで泊まった。勇一の合図を待って、今度は浩也がアンカーを投げ入れる。

 勇一がウインチを巻き上げると、隆栄丸は南北に張られたロープの緊張に従って斜め横に動いた。そして、ついには船位を固定した。
 船上で勇一の潜水準備が始まった。勇一は、体にぴったりと張り付くような毛糸製のつなぎを着ると腰を下ろした。

「これがカブトやしょ」
 勇一は宇宙遊泳で見るような潜水服を広げた。

 潜水服は煤けたオレンジ色で、首の所に頑丈そうな金具がついていた。リエが潜水服を着せ始めた。勇一は、時折にこやかな顔をしながら窮屈そうに潜水服の足から体を入れていった。
 潜水服の中にすっぽりと収まった勇一の顔をリエがタオルで拭き、そのタオルを折って頭にかぶせた。リエは、真鍮製のヘルメットを抱きかかえると勇一の頭に慎重にかぶせた。ヘルメットが勇一の顔にすっぽりとはまり潜水服の首の輪っかに着座すると、リエはきゅっとヘルメットをひねって固定した。

 勇一は宇宙遊泳の姿になった。立っていられないほど船は揺れている。
 リエが腰を落として勇一の脇を支える。浩也も見真似て反対側の脇を支えた。勇一はゆっくりと立ち上がると、リエに手を添えられて船縁の梯子までたどり着いた。

 潜水服の靴底に張り付いたオモリがコツコツと船床に響く。勇一は向きを変えると梯子を下り始めた。梯子の下半分は海中に没している。勇一は海底に首だけ出た状態になると、ヘルメットの丸窓からリエと浩也を交互に見た。勇一は視線を上空に移すと、一気に泡を出して海中に消えていった。
 暫くして交信が始まった。ザーッとスピーカーの音が鳴る。

「こちらリエです。視界はどうですか。どうぞ」
「ああ、暗いけどなんとか見えてます。どうぞ」
 リエは手慣れた様子だ。

 浩也は真一文字に口を結んだまま、勇一のはき出す泡を見つめていた。
 勇一の見つけようとしている笹竹は、自分たちのものと母達が入れたものとの二本あるはずだ。

 浩也は昨日は勇一に対し絶対に潜って欲しいと頼んでおきながら、今更怯んできた。何度考えてもこうするより仕方なかったと思いながらも怖かった。
 最悪の事態に耐えうる自信など全くないのだ。想像するだけで背筋をぞっとしたものがはい上がってきて気がどうにかなりそうだった。

 母がこんなところにいるはずはない、と浩也は祈りながら揺れる海面を見つめた。
 勇一が海底の状況を伝えた。海底は浮泥の場所で、一歩歩くたびに舞い上がって視界を塞ぐ。勇一は暫く濁りの収まるのを待つとのことだった。

「目印の竹は発見されましたか。どうぞ」
「まだ見えません。どうぞ」
 雑音混じりだが、勇一の声ははっきりと聞き取れた。

「ロープが見つかったら連絡を下さい。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 海面上に沸き上がる泡が勇一の位置を示している。泡は、まっすぐ進んだり戻ってきたり斜めに移動したりと動き回わると、やがて一カ所に止まった。

「見つかりましたかどうぞ」
 リエが訊くと暫く間を置いて返事が返ってきた。

「見つかりました。どうぞ」
 リエが浩也に振り向いた。浩也の顔が曇る。勇一からの報告を待つしかなかった。スピーカーがガーガーと鳴る。

「自分たちの入れた竹ではなかったです。どうぞ」
 リエは絶句して返事を返せなかった。

「竹だけが沈んでます。どうぞ」
 立て続けに届いた勇一の言葉に、浩也は大きなため息をついた。

「自分たちの竹を探します。どうぞ」
「了解です。どうぞ」
 勇一の泡がゆらゆらと蛇行して行ったり来たりする。勇一からの連絡はなかなかなかった。リエはマイクをおくと浩也に近寄った。

「もう、引き返す?」
 リエがしんみりと言う。

「いえ、せっかく潜ってもらったんですから」
 浩也は船床に腰を下ろした。

「あたしねえ、お父ちゃんがほんまに欲しかったんは宝もんやないと思うの。お父ちゃんは宝物を見つけるということにがむしゃらになっていたんじゃ無いと思うのよ。正直誰だってお金は欲しいわ。でも結局お金って何かを得るための手段にしか過ぎないでしょう。今朝勇一に、あんたのお母さんの手がかりが得られなかったら止めましょうって言ったの。そしたら勇一は、親父は宝物を手に入れたらワイやお母ちゃんやお姉ちゃん、そしてあんたのお母さんつまりはあんたのために使うはずやったんやから、それを探してやるんが親父の供養になるんやないかって言うのよ」
 浩也はリエの顔を見上げた。
 その遙か上空にカモメの群れが流れていく。ガーガーとスピーカーが鳴った。リエはマイクのところに引き返した。

「自分たちの竹を発見しました。どうぞ」
 リエはちらりと浩也の方を見た。

「それでは、半径五メートル以内の探索をお願いします。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 勇一は潜る時三メートルほどの突き棒を持っていた。
 リエの話では、埋没物を探す時には、その突き棒を海底面にゆっくりと差し込みながら探すのだという。経験を積めば、突き棒の感触で埋没物の材質までわかるとのことだ。
 
 勇一は、丹念に突き棒を使って半時間ほど探査したが、五メートル半径内にはそれらしきものはなかった。

「目的物らしきものはないです。どうぞ」
「了解。続いて十メートルまでをお願いします。どうぞ」

「了解。そやけど、船が流されてないか。どうぞ」
「了解。ちょっと見てみます。どうぞ」
 リエは和歌山側と加太岬の方を遠望した。
 陸上の目標物で山立てをしていたのだ。船に乗り慣れた人間は常に自分の位置を確認するために陸を見る。勇一の言うとおり、隆栄丸は紀ノ川の流水の影響なのか潮の加減なのかはわからないが、西に流されていた。リエが、アンカーを引っ張る機械の前に座りエンジンをかけた。リエは、歯車の横から二本突き出ているレバーを握って倒した。

「はずれてるわ」
 リエはエンジンを切って、またマイクを取った。

「北のアンカーがはずれてます。どうぞ」
「了解。暫く待って下さい。どうぞ」
 三人は暫し勇一からの連絡を待つこととなった。勇一の吐き出す泡は北の方に移動して、右往左往した。

「底が緩すぎてアンカーがききません。どうぞ」
 海底面が浮泥で緩く、アンカーが引っかからないのだ。
 アンカーを打ち直すことになった。が、何度か打ち直しても北側だけがどうしても海底面に刺さらない。船が固定できなければ潜水作業は出来ない。

「少し東の方に捨て石があるのでそれに結わえます。どうぞ」
「それは危険ではないですか。どうぞ」
 勇一の、アンカーの一方を捨て石に結わえる提案にリエは反対した。
 勇一は捨て石の所まで移動すると状態を報告した。捨て石とは、港湾工事に使用する大きな石のことだ。隆栄丸の東側に伸びた防波堤の基礎石が、先端付近で崩れたものらしい。

 捨て石は数十個ほど転がっていて大きなものは畳ほどの大きさがあるとのことだ。長年の放置でどれも半分は埋まっているという。その内の、四方の石にかみ合った冷蔵庫ほどの大きさの石にロープを結わえ付けるとのことだ。

「他にやりかたはないです。どうぞ」
 勇一は口調を強めた。

「了解です。どうぞ」
 リエは仕方ないといった感じだ。捨て石付近で泡が出続けた。
 作業終了の勇一からの連絡を待って、リエは慎重にウインチを巻いた。

「全然大丈夫です。どうぞ」
 勇一が、捨て石のビクともしないことを伝える。リエが不安な表情でレバーを少しずつ倒した。ワイヤーロープが軋む。沖に流されていた隆栄丸が、ポイントのほうへと徐々に移動した。浩也は見えもしない捨て石のあろう方向をじっと睨んだ。やがて隆栄丸はポイント上に船位を固定した。

「再開します。どうぞ」
「了解しました。どうぞ」
 リエは大きく息をはき出した。
 勇一は、ゴミをかき分けこまめに探査を繰り返しているようだ。突き棒がそれらしきものをなかなか捉えることが出来ないのか、暫し連絡が途絶えた。半時間ほど経った時スピーカーが鳴った。

「何かの木箱がいっぱいあります。どうぞ」
 リエは目を丸くした。

「いったん上がります。どうぞ」
 勇一は状況報告に上がることになった。
 泡がはしごに近づき勇一がゆっくりと上がってきた。リエと浩也が手を貸す。リエは船床に椅子を置いた。温泉などにある木製の椅子より大きめのものだ。勇一はそれに腰を下ろした。

 リエがヘルメットのネジを緩めゆっくりと脱がした。現れた勇一の顔は汗だくで息も荒い。リエが勇一の顔をタオルで丁寧に拭く。勇一は息を整えると口を開いた。

 突然、穴ぼこにがくっと体が落ち込んだらしい。慌てて浮力を確保するために船上に伝えようとしたら、握ったまま埋まった突棒の先にこつこつという感触があった。そのままの状態で突棒を何度も突いた。間違いなく木箱の感触だという。

「最低でも五個はあるっしょ」
 勇一は真顔で言った。

「お姉ちゃん、エアリフトの用意してくれんか」
「よっしゃ」
 リエは、畳半畳ほどの船床の板を取り除いた。
 中から、身の丈ほどもある直径二十センチ程の黒い塩化ビニールのパイプや、ロープを取り出した。エアリフトとは、大きな管に空気を送り込み、その空気の吐き出る力で海底に穴を掘る装置だった。リエは要領よくエアリフトを組み立てた。

 勇一はエアリフトを持つと再び潜水した。
 箱は、現地盤から三メートルも下に埋まっているとのことだ。コンプレッサーのエンジンがかかった。空気を送るパイプが振動する。直ぐに音吉丸から少し離れた海面に、黒い泥が濛々と沸き上がった。よく見ると、ビニール袋などのゴミも一緒に沸き上がっている。海底に穴が掘られているのだ。

「エアリフトを止めて下さい。どうぞ」
 五分ほど経つと海底の勇一から、エアリフト作業の終了が告げられた。
 リエがエアリフトを船上に引き上げようとするのを、浩也が加勢した。二人は、泥にまみれたホースを海水で洗い落としながら船上に引き上げた。

 やっと引き上げ終わって額の汗を拭う広也の目が沖の一点に釘付けになった。黒い帆のヨットが浮かんでいる。隆栄丸からかなり沖の方に離れてたところをゆっくりと南進しているようだ。

 横のリエは声も上げずに呆然とそのヨットの動きを見守っている。黒い帆が異様に聳えて、隆栄丸を威嚇しているようにも、また監視しているようにも見える。ヨットは何事もないように等速で南進を続け、やがて雑賀崎の岬に消えていった。

「あの夜のヨットに違いありません」
 浩也がそう言うと、リエは訝しそうな目で振り向いた。

「ただのヨットなんやろか。マリーナシティの方に行ったみたいやけど」
 リエはヨットの消えた雑賀崎の岬を睨み付けていた。

「そうでしょう。でもあんな黒いヨットがあるんですね」
 浩也は大きく息を吐いた。

「私もあんなヨット初めて見たわ」
 リエは雑賀崎の岬を睨んだままだ。スピーカーがガーガーと鳴った。

「木箱は全部で七つです。ロープを降ろしてください。どうぞ」
 リエが慌ててマイクを握る。

「了解です。どうぞ」
 海面の泥の濁りはすっかり拡散していた。
 リエはアンカーを緩めて、木箱のポイントへと船位を移動した。浩也が、錘を付けたロープを海底に降ろす。

「それでは上げて下さい。どうぞ」
 浩也は、そろりそろりとロープを手繰った。水面近くに古い木箱が姿を現せた。ビールのケースほどの大きさだ。浩也に体を寄せてリエもロープを掴んだ。木箱は結構重たい。何とか水面を切って木箱は船上に上がった。二人はまじまじとその木箱を眺めた。。

 木箱は古いがしっかりした作りだ。リエが木箱を開けようとした。が、蓋が頑丈に固定されていて空かない。リエは立ち上がると浩也の肩に自分の顔が当たったのも気にせず、蓋を開けるための道具を操舵室に探しに行こうとした。

「ロープを下ろして下さい。どうぞ」
 勇一からの連絡があり、リエははっとした顔で引き返してマイクを取った。

「ハイわかりました。どうぞ」
 リエは早口で答えた。

 木箱の中身が本当に時価数十億円もの財宝だったら大変なことになる、と浩也は唇をかんだ。
 木箱は順次引き上げられた。全く同じ大きさの木箱で七つある。

「もう木箱はありません。最後に、ポイントの竹を撤収するので、船を移動してください。どうぞ」
「了解、船を動かします。どうぞ」
 リエはマイクをきっちりとスピーカーの横に掛けもせず、小走りでウインチのところに駆け寄った。

 浩也は落ちたマイクを拾うとスピーカーの横に掛けた。リエは慌ててウインチのレバーを握ると、手前に倒した。隆栄丸がギシギシと音を立てて徐々に移動し始めた。 舳先が少し斜めに沈んだ様な気がした時だった。

「巻き過ぎてるっしょ止めー」
 勇一の叫び声がスピーカーから聞こえた。

 リエが両手でレバーを握って全体重をかける。が、ウインチの巻き上げは急には止まらない。
 船体が海中に引き込まれるようにぐぐっと沈んだ。と思ったら、今度は一転して船体がドーンと言う音と共に跳ね上がった。リエが悲鳴と共に跳ねとばされた。浩也も船縁に体をたたきつけられ転がった。

「はずれたぁ」
 リエは呻きながら小さくそう言った。ウインチがゆっくりと止まった。

 浩也にも状況は想像できた。ウインチに巻かれすぎ、耐えきれなくなったアンカー代わりの捨て石が、周囲のかみ合わせの石を蹴散らし外れたのだ。アンカーロープに繋がれた捨て石は、ウインチに巻かれながら海中を切り裂くように移動しているはず。冷蔵庫ほどの石にぶつかったらと思うと、浩也は体が震えた。

 浩也は祈るような気持ちで船縁にしがみついて、泡を凝視した。その泡は見たこともない早さで船の方に近づいている。強制的な力で動かされている不自然な等速運動だった。

 泡は、浩也の目前まで来るとあっさりと船底を横切った。浩也は顔をしかめて立ち上がった。同時に、リエの絶叫が響いた。

「ゆ、勇一ィー」
 パンパンにふくれあがった潜水服が船縁の傍に浮いていた。浩也は無我夢中で服を脱ぐと飛び込んだ。
 リエが狂ったようにケンツキを伸ばす。




 ガバチャのひとり言

 地震の日からよく眠れない日が続いた。
 「あんた・・」と家内に起こされる。
 虚空をつかみあがく夢の途中が思い出せない。

 地震直後に映し出されたテレビ映像が頭に焼き付いている。
 地を這う黒い津波を嘘だと思いたかった。

 現地の被害を知るたびに、胸が締め付けられる。
 神様を恨みたい。

 現実があるだけで、観念から発達した営造物のほとんどは瓦解した。
 さいころのように転がった防波堤。
 鉄筋の基礎から引きちぎられた建物。
 ボクらはいったい何を了知していたと言えるのだろう。

 歴史は繰り返す。
 その試練を乗り越えて紡ぎあげられた理性が今の文明だと思いたい。
 だからボクらはまたやれる。

 地震や津波の怖さを忘れずに前を向いていこう。
 助けあい支えあう人の優しさに希望を持っていこう。

 復興のまだほんのとば口に立ったばかりで、傷心していた自分にそう言い聞かせた。

 みんなで力を合わせて、がんばれ東北! がんばれ日本!

 

             被災に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。



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超燃える鮎友釣り もヨロシクグッド!