浩也は今日の天気を何日も前から願っていた。



 和泉山脈から黒いちぎれ雲が流れているものの、空全体からはたいした量ではない。 天気予報では夜半前から下り坂らしいが、黄金色の満月は見事なまでに夜空をスッパリと切り抜いている。
 あの日の月と同じだ。



「すげー満月やしょ」
 勇一の声が弾む。



「星もすごいわ」
 リエの声に、浩也は見上げた。満天下の星が眼に落ちてくる。刹那、隆栄丸が宇宙船になっておびただしい星の中を遊泳しているように思えた。



「おい、星やなしにかがり火もちゃんとみとけよ」
 躁船室の明かりに勇一の横顔が浮かぶ。
 かがり火は、真っ暗闇の海にくっきりと浮かんでいた。



 あれ? 浩也の目にかがり火の色とは違う明かりが見えた。それは沖の島の南側で揺れて直ぐに消えた。勇一に告げようと振り返るとリエと視線があった。



「見た?」
 リエは少し眉を吊り上げている。



「何の明かりです」
 浩也が問う。



「船の明かりやと思うわ」
 リエは舵を握る勇一に近寄ってそのことを告げた。



「どうせチヌの夜釣りやしょ」
 勇一は薄笑って動じない。



「ここは禁漁区よ」
「密漁やっしょ」
「まさか・・・・・・」
 リエは怯えた表情で浩也に振り返った。浩也もとっさに思いついたが、口には出さなかった。



「つけられてるんじゃないの」
 リエの語尾が震える。勇一は目を丸くしてリエを見返すと、首を左右に振って辺りを見回した。



「どういうことやぁ」
 勇一がリエに振り向く。



「他にも同じ事をしようとしている人がいるんやないの」
「お、脅かすなって」
 勇一が吐き捨てる。



「あり得るわ」
 リエは辺りを見回した。
 今日同じ事をしようとしている者が他にもいるのなら、それは母や隆三に手をかけた者の可能性が高い。



 大金は人間を一瞬で邪悪な魔物に変える。漆黒の闇の中で言いようのない不安が隆栄丸を包む。突然手が伸びてきて海中に引きずり込まれるようなあらぬ恐怖、それはやがて入れ替わるように、巨大な憎悪となって浩也の身体に満ちてきた。



「やったらあこいやっ」
 勇一の怒声が鳴った。驚いたリエが首をすくめる。
 自分が想像しているところまで、勇一の想像も膨らんだのだろう。本当にそんな相手がいるのなら、掴みかかって殴り倒してやる。



 浩也の中で、ぶつけようのない怒りが焦点の定まらないまま膨張を続けた。




 だが、その明かりは二度とは見えなかった。勇一の言うとおり密漁船だったのかもしれない。
 かがり火が隆栄丸の東進によって徐々に接近する。



「どないやしょ」
 勇一が大声で振り向く。



「あと少しです」
 浩也は立ち上がって答えた。



 かがり火はいよいよ接近した。もう少しだ。



「もうちょっと、もうちょっと・・・・・・はい、出会ったぁ!」
 浩也が叫ぶ。



 勇一が慌てて舵をきった。
 隆栄丸は左に大きく船体を傾け舳先を南に振った。
 勇一が、かがり火を縦に重ねて見ながら南進の速度を上げる。



 やがて前方に、加太から連なる和歌山の夜景が見え始めた。
 星が降り積もったような夜景。その上には見事なまでの神無月が浮かんでいる。



 二百年前につむじ風剛右衛門(かぜのこうえもん)が見た月も、今浮かんでいる月も変わりない。時間と共に移り変わっていくのは、人間が住む地表だけだ。



 隆栄丸が住友金属の高炉の南側に差し掛かった。



「おぉ見てみい、城が光ってらっしょ」
 勇一が言った。



 遠くに白光する和歌山城が浮かびあがった。
 和歌山城は観光シーズン中はライトアップを行っている。浩也はそんなことも計算済みだ。南進と共に神無月が徐々に城の上空に近づく。



「僕は艫でかがり火を見ます」
 と浩也。



「私は神無月と城を見るわ」
 とリエ。



「よっしゃ、一致したらワイが竹落とすっしょ!」
 勇一は片手で舵を握ったまましゃがむと、笹竹についたロープを確認した。ロープの先にはおもりのブロックが二ついている。



「かがり火は出会ったままです」
 浩也が繰り返す。



「後ちょっとよ」
 リエの甲高い声が上がる。



 えっ? 
 と浩也の絶句。
 視界からかがり火が忽然と消えてしまった。そんな馬鹿な。



「二つともかがり火が消えました」
「なっ、なんやてっ」
 勇一が船を減速する。



「ちゃんと見えてるやないかあ」
 勇一の言うとおり、振り返るとかがり火は二つとも見えていた。



「すいません見間違えました」
 浩也は見間違いはないと思ったがとりあえずそう言った。



「あっ、消えた」
 今度はリエが言った。



「なんてよぉ」
 勇一は上げたエンジンをまた下げた。



「勇一、エンジン切って」
 リエが駆け寄って早口で言うと、勇一は素直にエンジンを切った。



 隆栄丸から一切の照明が消える。
 タイミングを合わせたように黒いちぎれ雲が神無月を覆った。漆黒の闇。ザワザワと波の音だけが騒ぐ。右手に伸びる和歌山の夜景、その左手は暗闇で微かに淡路側の灯が点在するだけだ。



 浩也は、不規則に揺らぐ船底を這い蹲って躁船室までたどり着いた。
 三人は躁船室で寄り添うようにしてかがり火の方を見た。



 かがり火はひとつになったり二つになったり、全部消えたりしている。
 時折船底を突き上げる小さな揺れが恐怖心をあおり立てた。



「なっなんなんやしょこれぇ」
 勇一の声が裏返える。



「船よ、船が近づいてるんやわ」
 リエが震えた声で言いながら、浩也のフリースを掴んだ。




鮎釣り師のひとり言



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