無言の勇一が船上に引き上げられた。
 丸窓の中の勇一は目を閉じたままだ。リエが半泣きでヘルメットを外すと、勇一の目がゆっくり開いた。リエが勇一の鼻血をタオルで拭った。勇一はうつろな目でリエと浩也を交互に見た。

「つむじ風剛右衛門の呪いやしょ」
 と勇一は精一杯の笑みをつくった。
 リエがしゃくり上げる。とにかく病院に急がなければならない。西脇漁港までは全速力でも半時間以上はかかる。

「救急車を呼びましょうか」
 浩也の言葉に勇一は、「大げさなことすんな」と力を入れた。
 浩也に介抱を頼んでリエはウインチを全力で巻いた。錨を上げると操船室に駆け込みエンジンをかけた。隆栄丸のエンジン音が上がる。浩也は、勇一の顔にかかる飛沫を遮るように背中をかがめた。

 十分ほど走った所で、勇一の顔色が心なしか戻ってきたように感じた。勇一が無言で上半身を起こした。操船室のリエが「寝ときなさい」と叫ぶ。勇一は薄笑いをつくって言うことを聞かない。

「もう、大丈夫やしょ。ちょっと気い失うてただけやしょ」
 心配そうな浩也の手を勇一は振り払った。頭を左右に何度か振ると自立しようとしたが、直ぐに尻餅をついた。隆栄丸はゆっくりとカーブしながら西脇漁港に入った。まだ、朝の漁が終わっていないのか漁港はがら空きだ。

 隆栄丸が着岸するのとほぼ同時に、白の乗用車が目の前に止まった。
 リエは船を着岸させると舫を取るため、小走りした。岸壁にロープを投げると、乗用車のドアが開いて二人の男が現れた。

 二人とも野球帽をかぶってサングラスをしている。一人の男がロープを拾い上げて急いで船を係船金具に結わえ付けた。もう一人は辺りを窺いながらピストルをつきだしている。

「騒いだら撃つで。本物やからな」
 ドスの利いた声ではなかった。細く高い声で語尾が震えていた。

 船上の三人の動きはピタリと止まった。ピストルを持った男が顎で指図すると、もう一人の男が船に飛び乗ってきて木箱を車へと運び出した。トランクには収まらず後部座席にも積み込んだ。

 ピストルを持った男は、腰をひいた体勢で銃口を代わる代わる三人の方に向けている。大声でも上げようものなら本当に撃ち殺されるだろう。浩也は、まだ潜水服を着て身動きの取れない勇一の傍らで身動きひとつ出来なかった。

 男らは全部積み込むとタイヤを鳴らして走り去った。
 あっという間の出来事だった。

 浩也はふと昨夜のヨットの連中ではないのかと思った。勇一が船床を叩いて悔しがった。呆然としていたリエが気付いたように勇一のもとへ駆け寄った。浩也と二人がかりで勇一を車に乗せると病院へと直行した。


 西庄から大阪の岬町へと抜ける山道に猿坂峠という人気のない場所がある。
 その峠のため池の横で白いの乗用車が発見されたのが翌朝のことだった。

 地元の老人会が朝のウォーキングで偶々脇道に逸れて発見したらしい。
 不審に思って通りざま覗き込んでみると二人の男が寝ていたと言う。

 ナンバーは和泉ナンバーであった。老人会は、バス釣りで溜め池にでも訪れたのかとそのままやり過ごしたらしい。が、次の日の朝もそのままの状態でその車はあった。

 老人会が警察に連絡したが、二人は既に死んでいた。一人は、大阪市内の有名進学高校に勤める国語の教師、もう一人は、和歌山市木本で歯科医院を営んでいる者だった。

「あ、親父の行ってた歯医者やんか」
 勇一があんぐりと口を開けた。

「なんと木箱の中身は、旧日本軍の毒ガスでした」
 ワイドショーのキャスターが興奮気味に伝える。

「ど、毒ガス!」
 三人は絶句した。浩也は勇一の見舞い訪れていた。リエと三人で休憩室のテレビに釘付けになった。番組は解説を加え詳しく報道をした。

 車内では、木箱が二つ開けられており、栓の開いたビール瓶が二つ転がっていた。分析の結果、瓶の中身はホスゲンという旧日本軍の毒ガスだった。

 平成六年、世間を騒がせた宗教団体が女性ジャーナリストのアパートにまいた物と同じだ。吸入すると体内の水分と反応し、肺の中で塩酸が生成される。呼吸困難で死に至るほどの猛毒だ。

 昭和二十年八月十五日、日本の敗戦が知らされると、軍事裁判での処刑を恐れ全国各地で砲弾や毒ガスの隠蔽工作が始まった。和歌山でも、進駐軍が和歌山港に到着するまでの一ヶ月間、多くの砲弾が処理されたことが記録に残っている。

 砲弾の手っ取り早い処分方法は海洋投棄だ。船で運んで投げ捨てるだけの労力の軽さは陸上埋設の比ではない。現在でも、日本の海には回収し切れていない旧日本軍の砲弾が多数残存していると言われている。また、米軍から投下された不発弾も多く眠っている。

 昭和四十七年には、新潟港で港湾工事中の浚渫船海麟丸が不発弾によって爆沈し、死亡事故まで起きているほどだ。毒ガスもどこに埋まっていても不思議ではない。

 毒ガス製造は罪が重たく裁判にかかればまず処刑になる。そのことから、開発製造も敗戦後の処理も極秘裏に行われた。

 現在、政府も調査中だが実態はほとんどわからない状態だ。
 と、番組は最近九州の苅田港で三十九発の毒ガス弾が出て港湾工事が中止になったことを図表を使って説明した。

「あっ、あのヨット」
 勇一が声を上げた。浩也も目を丸くした。テレビは歯医者の贅沢な私生活に焦点を当てていた。

「こんなんでまだ金が欲しいってか」
 勇一が言うと、傍に座っていた老患者が相槌を打って笑った。ニュースは次の事件へと移った。

 三人は病院の中庭に出た。
 おそらく、亡くなった歯医者は隆三から相談を持ちかけられ、古文に詳しい知り合いの高校教師に頼ったのだろう。二人は解読をすると隆三らに伝え、後は・・・・・・、浩也はそれ以上想像することを止めた。

「ワイもあの木箱は、お宝なんかやなしに米軍の捨てた何かやないかと思うたんやけど、まさか毒ガスや何て思いもよらなんだわしょ」
 勇一は淡々と語った。

 終戦後間もなく、和歌山港に進駐軍が到着した際、アメリカ兵達は沢山の物資を海に投げ捨てた。長旅で古くなった食料品やゴミを、船の上から投げ捨てたのだ。

 漁師達は船上からその様子を見ていた。日本は、食料も物資も枯渇した時代である。進駐軍が大阪に向かっていなくなったのを見計らって、潜水士たちは海中に潜ってそれを拾い上げた。物資は、コンビーフの缶詰やビールの詰まった木箱だった。

 勇一は、そんな話を親父や潜水士仲間の年配者からよく聞かされていた。だからそのたぐいの物資ではないのかと、海底で最後の木箱にロープを結わえる時に思いついたと言うことだ。

 上船したら、そのことを言って中身を確認するつもりでいたらしい。が、その後に捨て石の直撃を食らって気を失ってしまった。

 後は、勇一の捨て石直撃騒動でみんなの関心がすっかり木箱から遠のいた。
 勇一の捨て石直撃がなかったら、もっと別の展開になっていただろう。下手をすると自分たちが同じ目に遭っていた可能性だってある。

 浩也は勇一が気が付いた時、「つむじ風剛右衛門の呪いやしょ」と言ったことを思い出した。そして、捨て石が飛んできたから良かったのではないのかと思い始めた。

 あれは、剛右衛門の呪いではなく、まっとうな人生を遅れという忠告ではないのか。恐らく剛右衛門は財宝を隠したのではなく捨てたのだ。浩也はその時の状況を想像した。

 表の顔は廻船問屋、裏の顔は海賊の親分として悪事の限りを尽くしてきたつむじ風剛右衛門。

 表の世界も裏の世界も、結局世の中は金による世界で人間関係が成り立っている。それは金を奪おうとしての、ドロドロとしただまし合いや殺し合いの世界だ。

 つむじ風剛右衛門の時代も、今の時代も大金を前にして生じる人間模様に変わりはない。

 浩也は、時代こそ違え未だに変わりのない人間の心にやるせなさを感じた。死期を悟った剛右衛門は自らの人生を顧みて、莫大な財宝をめぐる親族の末路を憂えたのではないだろうか。こんなものは誰にもわからないところに捨てたほうがよい。人間は汗水垂らして働いて、自分が生きていけるだけの糧があればよいのだ。そう考えたにちがいない。

 だとしたら、あの山立ては剛右衛門には必要なかった。剛右衛門と財宝を乗せた船に必要だったのは、行き帰りの見通しだけ、つまり狐の出会う友が島への行き帰りの目印だけでよかった。

 神無月と和歌山城を山立てたのは、その船を漕いだ地元の漁師だろう。やはり、財宝の欲に目がくらんだのだ。

 漁師は、真っ暗な海で櫓を漕ぎながらもう一線を決めるための二つの明かりを探した。目に入ったのは、神無月と和歌山城だ。漁師は、友が島のかがり火を一致させながら、神無月が和歌山城の真上に来るまで櫓をこぎ続けた。

「剛右衛門さま、この辺りが潮も速く紀ノ川の土砂も埋まりやすいところでございます」
 漁師はそう言って、神無月が和歌山城の真上に差し掛かった所で船を泊めた。
 そして、それを誰かに言って書き留めてもらった。それが、あの古文書ではないのか。

「ワイは石に当たって良かったんやしょ」
 リエが怪訝そうな顔で勇一を見上げる。

「そんなもん見つける暇があったら働けって。親父も天国でわかったんやしょ」
 勇一はガラにもなく目を潤ませた。

「馬鹿な親父を許いちゃってくれえや」
 勇一は浩也に頭を下げた。

「やっ止めてください。誘ったのは私の母の方なんですから」
 浩也が言うと、リエが二人の間を割るように進んでベンチに腰を下ろした。
 浩也と勇一がリエに目を移す。リエは中庭の色づいた楓を見上げていた。

「四十九日に行く?」
 リエが独り言のように言った。

「行きましょう」
 浩也が言うと勇一も頷いた。

 隆三の四十九日の法要が行われた後、三人は再び隆栄丸に乗り込んだ。
 リエの手には花束が持たれている。浩也は手慣れた様子で舫ロープを外すと船に飛び乗った。

 隆栄丸は心地よいエンジン音を立ててゆっくりと離岸した。
 澄み切った高い夜空に、上弦の月が浮かんでいる。浩也は揺れる船に身を任せて空ばかり眺めていた。隣に座ったリエも膝を抱えて同じように空ばかり見ている。

 港外に出ると、隆栄丸は大きく船体を傾け雑賀崎に舳先を振った。
 リエの体が遠心力に押されて浩也に寄り添う。
 船が傾きを取り戻し直進体勢に入っても、リエは浩也に寄り添ったままだ。

 リエはゆっくりと浩也の肩に顔をもたれかけた。リエの細い髪の毛が浩也の頬を撫でる。浩也は刹那母の匂いを思い出しリエの方を向いた。気付いたリエがゆっくりと顔を上げる。

 三人を乗せた隆栄丸は、一定の隆起を繰り返しながら山立ての場所へと向かっていく。

 それは前進するというよりかは、むしろ水平線の向こうに浮かぶ夥しい星空に向かって登っているようでもあった。


                                                   

                                                            





ガバチャのひとり言

 チャイムが鳴るので出たら隣のKちゃんと母親が立っていた。
 Kちゃんとは隣の小学生の女の子。

「あのぉ、レモン少しいただいてもいいですか」と母親。
「どうぞどうぞ好きなだけ取ってください」とボク。

 言うが早いか、Kちゃんは我が家の庭にあるレモンの木に登り始めた。
 あらら、と母親が傘を持って追いかける。
 
 Kちゃんは雨など関係ないと言った感じで手をのばしてレモンをちぎりはじめた。
 ボクも高切りばさみを持って加勢する。
 
 高いところの丸々としたレモンをいくつも切り落とした。
 キャッキャと喜ぶKちゃん。
 
 いくつもの枝付きレモンを抱えたKちゃんが礼を言う。
 訊くと、薄い輪切りにして砂糖水で漬け込むらしい。

「おいしいのできたらおっちゃんにもあげるからねー」
 と笑顔のKちゃん。

 はは、嬉しい。嬉しいよー。
 久しぶりに心がスッと晴れた。

 見ると雨が上がって雲の切れ間に青空が開いていた。
 レモンの葉がきらりと光る。
 春はやはりやってきた。
 
 子供の笑顔ほど素晴らしいものはない。
 辛いことが多いけど、ボクらも少しずつ笑顔になろう。


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超燃える鮎友釣り もヨロシクグッド!

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